21 Lessons 3/3

Ⅳ 真実

15.無知 -あなたは自分で思っているほど多くを知らない-

過去数世紀の間に、自由主義の思想は、合理的な個人というものに絶大な信頼を置くようになった。この思想は、独立した合理的な行動主体として人間を描き出し、この神話上の生き物を現代社会の基盤に仕立て上げた。

とはいうものの、合理的な個人というものをそこまで信頼するのは誤りだ。この合理的な個人とはどうやら、西洋の幻想であることがわかってきている。人間の決定のほとんどが、合理的な分析ではなく情動的な反応と経験則に基づいていることは説明した通りだ。合理性だけではなく個人性というのも神話である。人間はめったに単独では考えない。私たちは集団で考える。それこそが、ホモ・サピエンスが他のあらゆる動物を凌ぎ、地球の主人になれた理由だ。

個々の人間は、(大統領さえも)この世界について情けないほどわずかしか知らない。そして歴史が進むにつれて、個人の知識はますます乏しくなっていく。私たちの考え方の大半は、個人の合理性よりもむしろコミュニティの集団思考で形成されるようになった。これは何も悪いことではない。とはいえ、現代では厄介な原因ともなっている。例えば、保守派のパーティーで統計データの束を見せたところで、地球温暖化は本当に起こっていると説得できるなどと思わないほうが良いというようにである。

集団思考の力は実に広く浸透しているので、それがひどく独断的に見えるときでも、なかなかその束縛を振りほどけない。権力の中心にある人はなおさらだ。権力とは、現実をありのままに見ることではなく、それを変える力のことである。権力は、いつの時代でも指導者たちをその中心において、世界を歪んだ形で捉えさせてしまうブラックホールのような働きをする。だが権力から遠ざかったところで、真実を得るには希少な時間をあまりに多く浪費することになるというジレンマに陥いる。世界は今後なおさら複雑になる。その結果、世界の行方を決める技術的な装置や経済の動向や政治のダイナミクスについて、一個人が知っていることは一層少なくなる。

たしかにソクラテスの言うように無知を認めることが最善だが、私たちは無知であるがゆえに、正解と不正解、そして正義と不正義をどのように区別すればよいのだろうか。

16.正義 -私たちの正義感は時代遅れかもしれない-

原始時代には誰もが自分とそのまわりの世界について熟知していた。しかし現在、私たちは夕食に食べた卵を生んだ鶏の、その後の運命さえ知り得ない。知ろうと努力しない人は、知らぬが仏の状態にとどまり、知ろうと努力する人は、真実を見つけ出すのに大変な苦労が伴うように現在の世の中は出来ている。

例えば、自分の投資している株式会社が「盗む」という非道徳的な行為で、地域に重大な環境汚染をもたらし、川を汚しながら大きな利益を得ている。一株主である私はそれを知る由もない。投資先の一つとして、ぼんやりと記憶しているだけである。それでも私は川を「盗んでいる」と言えるのだろうか。関連する事実をすべて知る術などない時に、どうすれば道徳にかなう行動が取れるのだろうか。

たいていの人にとって、世界の主要な道徳的問題を理解しようとしても、もうそれはかなわない。隣人や集落内、近隣の氏族については理解できても、互いに接触のある地球上の全ての集団についてはとうてい理解できない。この道徳的ジレンマの解決法は以下の四つの方法がよく使われてる。

(1)問題の規模を縮小する。たしかに例えば、シリアの内戦を一人対一人の話に集約すると、どちらかが善人でもう片方が悪人となる。しかしこの種の争いの歴史的な複雑さは、単純明快な筋では理解できない。

(2)胸に迫る人間ドラマに的を絞る。たしかに、例えば涙腺を刺激するように、ある慈善団体が一人の不幸な女の子のストーリーを紹介すると寄付が集まりやすくなる(友注 ワールド・ビジョンの例)。一方でより広範な統計の話をすると、寄付する意欲は減退する。

(3)陰謀論をでっちあげる。しかし現代の社会は、私たちの正義感にとってだけでなく管理能力を発揮する者にとってもあまりに複雑であり、大富豪やCIAやフリーメイソンたちですら、世界で起こっていることを本当に理解している人は誰もいない。

(4)ドグマ(友注 宗教上の教義)を一つ生み出し、全知の理論や支配者を信頼し、導かれるままについていく。しかし、現実が複雑すぎるので疑問の余地を挟み込まない教義は、知的な慰めと道徳的な確信を提供し、私たちを複雑さへの苛立ちから開放するが、それが正義かどうかは疑わしい。

以前は人々が直面している共通の問題について一緒に考えることが出来たが、今や私たちはグローバルな問題に悩まされ、そしてそれを解決するグローバルなコミュニティは存在しない。FBもナショナリズムも、宗教もグローバルなコミュニティには程遠い(友注 コロナ禍におけるWHOの役割にも見られる。)。我々は真実を理解して正義を見つけるという人間の探求を、もう失敗であると認めて諦めるべきなのか。

17.ポスト・トゥルース -いつまでも消えないフェイクニュースもある-

私たちは「ポスト・トゥルース」の新時代に生きていると言われている。2014年2月下旬、軍の徽章をつけていない特殊部隊がウクライナに侵入し、クリミア半島を占領した。プーチン大統領は、それがロシアの部隊であることを再三否定したが、それが滑稽無糖な嘘だということは本人たちも承知していた。ではロシアという神聖な国家を維持するという大義名分のためであれば人を殺すことが許されるのだとすると、ウソを付くことも許されるのではないだろうか。

ウクライナが真の独立国家なのか、似非(えせ)国家なのかについてだけではなく、世界にはエセ国家が他にもいくらでもある。それらの中では、歴史全体や国家全体ですら偽造されているのだ。

そもそも歴史にざっと目を通すと、はるか昔からプロパガンダや偽情報、さらには国家や国民の存在のまるごとの否定、そして似非国家を作り出す習慣ですら存在した。常に人間はポスト・トゥルースの時代を生きていたのである。なぜなら誰もが同じ虚構を信じている限り、私たちは全員が同じ法や規則に従い、それによって効果的に協力できるからに他ならない。

宗教もフェイクニュースと同一視できるだろう。でっちあげの話を1000人が一ヶ月したらフェイクニュースだが、10億人が1000年間信じたら、それは宗教である。ヨーゼフ・ゲッベルズ(友注 ナチ党の宣伝大臣)は1000回語られた嘘は真実になると述べ、ヒトラーはどれほど見事なプロパガンダも、要点を絞り込み、ひたすら繰り返すことが肝要だと述べている。

さらに宗教やイデオロギーだけではなく、営利企業ですら同様の行いをしている。ブランド戦略は人々が真実であると思いこむまで、同じ虚構の物語を何度となく語るという手法を取ることが多い。例えばコカ・コーラを思い浮かべて、若くて健康な人々がスポーツをしながら楽しんでいるところを思い描くようにである。多くの人は、太り過ぎの糖尿病患者が病院のベットで横たわっている姿を想像できない。

ということで、真実がホモ・サピエンスの課題リストの上位に入ったことは一度もなかった。一部のケースでは、虚構や神話ではなく、当事者の合意のみで成り立つ約束事を通して人々を組織することが可能だという向きもあるかもしれない。たとえば米ドル札のようにである。このように実際には、「何かが人間の約束事に過ぎないのを知ること」と「何かが本質的な価値を持つと信じること」の間に厳密な区別はない。

よって私たちはフェイクニュースは当然のものとして受け容れる必要がある。そのかわりに、それらニュースの問題は、その裏に遥かに難しい問題があることを認識し、現実と虚構を区別するために、なおさら一生懸命努力すべきだ。自分の偏見を暴き、自分の情報源の確かさを確認するために時間と労力をかけるのは、私たち全員の責任だ。ここでは現実と虚構を区別する二つの著者の経験則を紹介する。

第一に信頼できる情報がほしければ、たっぷりお金を払うことだ。無料のニュースはセンセーショナルな見出しであなたを引き付けなくてはならないというのが、そのビジネスモデルの根本にあるからだ(友注 Think clearly 36)。

第二の経験則は、対象の問題に関連した科学文献を読む努力をすることだ。それらは専門化の査読を受けた論文や、名の知れた学術出版社が刊行した書籍や、定評のある大学や機関の教授の著作に限る。少なくとも、科学会は何世紀にも渡って最も信頼できる知識の源泉であり続けた。

18.SF -未来は映画で目にするものとは違う-

人間が世界を支配しているのは、他のどんな動物よりもうまく協力できるからであり、それは虚構を信じているからであることは説明した。したがって、詩人や画家や劇作家は、少なくとも兵士や技術者と同じぐらい重要であると言える。なかでも21世紀初頭における最も重要な芸術のジャンルは、SF(友注 Science Fiction)かもしれない。残念ながら、機械学習や遺伝子工学の分野の最新論文を読む人は本当に少数である。だが「マトリックス」のような映画は、現代におけるテクノロジーや社会や経済の最も重要な進展を、人々がどう理解するかを決める役割を果たす。これは科学的事実をどう描くかにSFがもっとずっと多くの責任を負う必要があることも意味する。

「マトリックス」が描く世界では、ほぼすべての人間がサイバースペースに閉じ込められ、彼らが経験することは全て、人間を支配するアルゴリズムによって決められている。現在のテクノロジーと科学の革命が意味しているのは、正真正銘の個人と正真正銘の現実をアルゴリズムなどで操作しているということではなく、真正性は神話であるということだ。人々は枠の中に閉じ込められるのを恐れるが、自分がすでに枠、すなわち自分の脳の中に閉じ込められていることに気づかない。そして、脳は更に大きな枠、すなわち無数の独自の虚構を持つ人間社会の中に閉じ込められている。

最高の科学理論に従えば、そして、最新のテクノロジーに何ができるかを考えれば、心は常に操作される危険がある。人を操作する枠組みから開放されたがっている、正真正銘の自己などありはしないといえる。

Ⅴ.レジリエンス

19.教育 -変化だけが唯一不変-

私たちの昔ながらの物語はみな崩れかけ、その代わりとなる新しい物語は、今のところ一つも現れていない。このような時代に私たちはどう備え、次世代にどんな準備をさせるべきなのか。

21世紀の今、私たちは膨大な量の情報に晒され、検閲官たちでさえそれを遮断しようとはせず、むしろせっせとフェイクニュースを広めたり、無関係な情報で私たちの気を散らしたりしている。マウスを1クリックすれば、世界のあらゆる最新情報を手に入れられるが、矛盾する話があまりに多いため、私たちは何を信じていいか困ってしまう。

そのような時代において、教師が生徒にさらに情報を与えることほど無用な行為はない。生徒はすでにとんでもないほどの情報を持っているからだ。人々が必要としているのは、情報ではなく、情報の意味を理解したり、重要なものとそうでないものを見分けたりする能力、そして何より、大量の情報の断片を結びつけて、世の中の状況を幅広く捉える能力だ。

それでは私たちは何を教えるべきなのか。多くの教育の専門家は、学校は方針を転換し、「四つのC」すなわち、critical thinking(批判的思考)、communication(コミュニケーション)、collaboration(協働)、creativity(創造性)を教えるべきだと主張している。

なかでももっとも重要なのは、変化に対処し、新しいことを学び、馴染みのない状況下でも心の安定を保つ能力になるだろう。なぜなら変化のペースが速まるにつれ、経済ばかりでなく「人間であること」の意味をのものさえも変化しそうだからだ。2048年までには、身体構造や認知構造までもがどこへともなく消えるか、データビットの雲の中に紛れてしまうだろう。

よって21世紀には安定性は高嶺の花となる。あなたが何か安定したアイデンティや仕事や価値観にしがみつこうとすれば、あなたはすぐに時代から置き去りにされる。経済的にばかりではなく、とりわけ社会的にも存在価値を持ち続けるには、絶えず学習して自己改造する能力が必要だ。そのような世界で生き延び栄えるには、精神的柔軟性と情緒的なバランスがたっぷり必要である。自分が最もよく知っているものの一部を捨て去ることを繰り返さざるをえず、未知のものにも平然と対応できなくてはならないだろう。

20.意味 -人生は物語ではない-

私たちは自分の人生の意味を探し求める時に、現実とは一体どういうものかや、宇宙のドラマの中で自分がどんな役割を果たすのかを説明してくれる物語を欲しがる。ヒンドゥー教の聖典「バガヴァット・ギーター」は自らの人生の義務を「ダルマ」(友注 「正義とは何か」というのが基本的な意味になる。wiki)とし、ディズニーアニメ「ライオン・キング」は「命の輪」として語る。アッラーの物語も共産党宣言も、私たちの真のアイデンティティを定めようとする。

とはいえ、それらの物語の規模を見てみると、どれもまちまちである。物語はほとんどにおいて盲点があり矛盾点にまみれており、不完全である。しかし、物語は二つの条件を満たしさえすれば、私の人生に意味を与えることができるとわかる。第一に、私に何らかの役割を与えること。第二に、優れた物語は無限の彼方まで続く必要はないが、私の地平の外まで続いていること。物語は私を自分よりもなにか大きいものの中に埋め込むことで、私にアイデンティティを提供し、私の人生に意味を与えてくれる。

人はある特定の物語を信じていると、その物語の些細な点にまで極めて強い関心を抱く一方、その範囲外のものは目に入らなくなる。そして著者は、なにがその「なにか大きいもの」に意味を与えるのか疑問に思い始めた。熱心な共産主義者は、革命初期段階で社会民主主義者と手を組むことが許されるかどうかは、いくらでも時間をかけて議論するが、地球という惑星上での哺乳動物の進化や宇宙での有機生命体の広がりの中で、プロレタリアート(友注 賃金労働者階級のこと。無産階級とも。)が占める位置について、じっくり考えてみることはない。そのような他愛のない話は、反革命的で、時間の無駄だとみなされる。時間や空間のほぼ全体、ビッグバン、量子物理学、生命の進化を無視する物語は、よくてもせいぜい真実のほんの一部に過ぎない。ところが人々はどうしたわけか、そうした物語の外側には目をつぶっていられる。

このような理由から優れた物語は、私に役割を与えなければならないし、私の視野の外まで伸びていかなければならないものの、真実である必要はない。もしあながた人生の真の意味を問い、その答えとして誰かから物語を与えられたら、それが間違った答えであることを承知してほしい。それでもなぜ人は虚構を信じるのか。一つは個人のアイデンティティが物語の上に築かれているからだ。幼い頃からの刷り込みである。第二に、自分たちが所属する集団の制度や機関も物語の上に築かれているからだ。

というわけで、もしこの世界や人生の意味や自分自身のアイデンティティについての真実を知りたければ、まず苦しみに注意を向け、それが何かを調べるのに限る。その答えは物語ではない。

21.瞑想 -ひたすら観察せよ-

これほど多くの物語や宗教やイデオロギーを批判してきたのだから、自らも矢面に立ち、私のような懐疑的な人間が、どうして毎朝依然として晴れ晴れとした気分で目覚めることがっできるのかを説明してこそ公平というものだろう。

本章では著者のこれまでの人生を語り、瞑想との出会いについて記述する。そして、瞑想を通じて、自分自身を理解しようとしている過程を説明する。

いずれにしろ、テクノロジーが進歩する内に、燧石(すいせき)でつくったナイフが核ミサイルに変わったことで以前より危険になり、洞窟壁画がテレビ放送に進化したことで人々を騙すのが容易になった。近い将来、アルゴリズムはこれらの過程の総仕上げをし、人々が自分自身についての現実を観察するのはほぼ不可能にするかもしれない。そのときには、自分自身について何を知るべきかについても、アルゴリズムが決めることになるだろう。あと数年、数十年は、努力をすれば私たちは、自分が本当は何者なのかを吟味する時間が残されている。

1件のコメント

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です