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本書は「サピエンス全史」、「ホモ・デウス」の著者であるユヴァル・ノア・ハラリによる「現在」に焦点を当てたものである。本書は現在世界で起きている問題について極めて広範なテーマを21の章にして検討する。テクノロジー、政治、戦争とテロ、正義とはなにか、それら多岐にわたる問題からのレジリエンス(友注 復元力)はなにか、そして人生の意味について論じる。

本書の大半は自由主義と民主主義制度の欠陥について論じているが、彼が反自由主義というわけではなく、現在ある政治モデルの中でその主義、制度の出来が最も良いため、それを改めて理解し、どのように改善できるかを検討しているからだ。

率直に言ってテーマは広範であり、様々な基礎知識を求められ、正確に読み解くのは小生には難解である。本稿では、やはり学校のレポートのように自分なりに要約し、まとめ、理解を深めていくことにする。理解の誤りがあれば指摘をいただきたい。

Ⅰ.テクノロジー面の難題

1.幻滅 -先送りにされた「歴史の終わり」-

20世紀にグローバルなエリート層が3つの物語(友注 ここでは制度のようなニュアンス)を考えだした。ファシズムと共産主義と自由主義の物語だ。この3つ物語の争いは第二次世界大戦でファシズムが脱落し、冷戦終了とともに共産主義が脱落した。そして自由主義のみが残されたかのように見えた。

1990年から2000年代には多くの国が自由主義を取り入れ、そうでない国は時代遅れのように見えた。しかし2008年の金融危機依頼(友注 リーマンショック)、多くの人が自由主義の物語に対して幻滅しはじめた。そしてトランプ大統領の政策や、ブレグジットが表すように、移民や貿易に対して次第に壁を築くようになりはじめている。物語が一つしか無いというのは安心できる状況だが、それが全くなくなってしまってはぞっとする。これは人間の文明が終焉を迎える予兆なのだろうか。

なぜかわからないが破滅が近づいていると感じるのは、加速する技術的破壊(友注 イノベーションのジレンマの破壊的技術とは違う)によるものだ。自由主義制度は工業化時代を管理するために形作られたものであり、ITとバイオテクノロジーの分野で進んでいる革命に手を焼いている。政治家も有権者も新しいテクノロジーが複雑すぎてほとんど理解できていない。一方で技術の進化は止まらない。もしかしたらAIが国の予算案を決め、暗号通貨にたいして課税することになるかもしれないし、いずれITとバイオテクノロジーは、我々の体や心まで再構成するようになるだろう。

科学者たちはITとバイオテクノロジーの革命を推し進めるが、その政治的意味合いを誰も理解していないし、彼らはそもそもまったく誰かの代表ではない。そして議会や政党にはその判断能力はない。例えば、この二つのテーマが選挙で出てくることは稀だ。自由主義は一般大衆のための物語だった。その証拠にトランプとブレグジットは政治的な力を持ちつつも、経済的価値を失いつつあることを恐れた人々(友注 グローバル化についていけない者)に支持された。

しかし我々は自由主義を放棄しようとしているわけではない。自由主義のセットメニュー型のアプローチからビュッフェ型のものの見方へ行こうしようとしているのだ。表に現在の自由主義のセットメニューを記す。

図表1-1 自由主義のセットメニュー

国家的なレベル国際的なレベル
経済の分野自由市場、民営化、低課税自由貿易、グローバルな統合、低関税
政治の分野自由選挙、法の支配、少数派の権利平和的な関係、多国間協力、国際法と国際機関
個人の分野自由選択、個人主義、多様性、ジェンダーの平等個人の移動と移民の容易さ

この6つの分野のなかで、ほぼ確実に誰もが共通して望むものは平和的な国際関係のみだろう。例えば、他の自由主義の要素を支持していても、多くの人は移民について反対するようになった人もいる。ようするに以前はこれら6つの要素をまとめて自由主義の物語としていたが、近年これらの要素について個別に(友注 ビュッフェのように)検討するようになり始めたということだ。

自由主義はこれまであった他のどんな選択肢よりも優れた実績をもっているが、例えば私達が直面している生態系の崩壊と技術的破壊に対して明確な答えはもっていない。自由主義は経済成長に頼ることで問題を解決してきた。パイが常に成長していればそれで問題なかったが、経済成長はグローバルな生態系を救うことはない。そして破壊的技術も発明を元にしているので経済成長を止めることはない。

よって私達は、この世界のためにアップデート版の物語を創出する任務を担わされた。まずはテクノロジーがもたらす難題を、多くの人が関心のある雇用の面から見ていく。

2.雇用 -あなたが大人になったときには、仕事がないかもしれない-

2050年の雇用市場が現在と大きく違っていると考えるのは全員の一致するところだろう。歴史を振り返ると自動化が大量失業をもたらすという恐れは産業革命に遡るが、機械に仕事が奪われるたびに、新しい仕事が誕生してきた(友注 ラッダイト運動)。今回、主にAIによる自動化に対する雇用の喪失が叫ばれているが、どうなるであろうか。

人間の主な二種類の能力、すなわち身体的な能力と認知的な能力にのうち、これまで機械は主に身体的な面で人間と競い合ってきた。認知的な面では人間は機械に負けていなかった。よって農業や工業は自動化が進んだが、学習や分析、意思の疎通、新しいサービス業については人間の独断場だった。しかし人工知能が人間の情動の理解の部分でも人間自身を凌ぎ始めている。我々が機械に対して優位を保ち続けられるような能力を、私達はまだ知らない。

AIが持つ人間とは無縁の能力のうち、とくに重要なものが二つある。接続性と更新可能性だ。人間は一人ひとり独立した存在なので、互いに接続したり、全員を確実に最新状態に更新したりするのが難しい。一方、コンピューターは簡単にネットワーク化することができる。私達の直面している問題は、人間一人が一台のコンピューターに負けるという問題ではない。一人の人間の運転能力と、一台の自動運転車の能力を比較するのではない。私達人間が運転する車が他の車と衝突してしまうのは二つの独立した人間だからであるが、自動運転車はネットワークに接続されているので、二台の車は単一のアルゴリズムの一部である。よって、プログラムにバグがないかぎり、衝突することはない。

WHO(世界保健機関)が認定する新しい疾病(友注 しっぺい)を、世界中の医師に伝えるのにどれほどのコストがかかるだろうか。もし100億のAI医師が、それぞれ一人の人間の健康状態を監視していたとして、それらをアップデートするのとどちらが簡単だろうか。それよりも優れた運動技能や情動的な技能も必要とする対人ケアサービスを実現する看護ロボットができるまでは、医師よりも看護師のほうが必要とされるかもしれない。

創造性はまだ人間のほうが優れていると思うかもしれない。すでに音楽の販売に人は必要とされなくなったが(友注 iTunesの事例)、ミュージシャンやDJは未だに生身の人間のままだ(友注 そうでもない。iTunesのGeniusは優秀だ。)。しかし芸術家ですら安穏としていられない。なぜなら我々が芸術に触れた時に変化する情動とは、何か神秘的な現象ではなく、生化学的な過程の結果だ。例えば音楽は、入力(音波の数学的パターン)と出力(人間の神経の嵐のような電気化学的パターン)をビッグデータ分析することで、アルゴリズムが管理することになるかもしれない。AIはセレンディピティ(訳注 偶然に幸運な発見をする能力)ですら、再現するだろう。

米軍が活用した無人機は、そのメンテナンスに一機あたり30人、得られた情報の分析に80人必要になったが、これらの職を埋めるだけの訓練を積んだ人材を確保できず、無人機のための人員不足という皮肉な結果を招いている。一部の高度な人材は、このように新しい仕事につくことができるだろう。

しかし非熟練労働者の就職は困難を極める。1980年に失業した工業労働者は、スーパーマーケットのレジ係として職を得ることが出来た。農場から工場、工場からスーパーという移動には、限られた訓練しか必要なかったからだ。だが2050年にロボットに仕事を奪われたレジ係には、代替できる職場はないだろう。ロボットに代替できる仕事はロボットが行っており、彼らが急に癌研究者やドローン操縦士などになることは出来ないからだ。

したがって、人間のための新しい仕事が出てきても、新しい「無用者」階級(友注 useless class 著者の造語)の増大が起こるかもしれない。この問題の解決策の候補は3つのカテゴリに分類できる。a.仕事がなくなるのを防ぐためになにをするべきか? b.十分な数の新しい仕事を創出するには何をするべきか? c.最善の努力をしたにも関わらず、なくなる仕事のほうが創出される仕事よりもずっと多くなったらどうするべきか?

a.はおそらく達成不可能だろう。AIとロボット工学が持つ莫大な好ましい可能性を捨てることになるからだ。b.は変化のペースを遅らせることによって可能だろう。テクノロジーは決して決定論的ではない。商業的に実現可能で、経済的に利益の上がる新しいテクノロジーを、政府は規制によって首尾よく防ぐことができる。例えば人間の臓器市場だ。しかしc.のような状態になったら、新しい社会、経済、政治のモデルを探求しなくてはならない。

注目を集めているモデルの一つに「普遍的な最低所得保障」がある。アルゴリズムとロボットを制御している億万長者と企業に課税し、その税収を使ってすべての人に気前よく一定額を支給し、基本的な必要を満たしてもらうという発想だ。もしくは、最低サービス保障という考え方でも良い。全ての教育、医療、交通を無料で提供する。これは共産主義のユートピア的ビジョンだ。この二つのどちらを提供したほうがいいかについては議論の余地があるが、真の問題は「普遍的」と「最低」という言葉が本当は何を意味しているかを定義することだ。

これまでの普遍的な最低支援という場合には、「国民の」最低支援を意味してきた。フィンランドの普遍的な最低所得保障の取り組みは、フィンランド国民に対して行われてきた。しかし、自動化の主な犠牲者は、フィンランドには住んでいないかもしれないのだ。グローバル化によってある国の人々が他の国々の市場に大きく依存するようになった今では、これまでの「普遍的」なサービスでは問題を解決しないことは明白だ。

また「最低」とはどういった意味だろうか。純粋に生物学的な視点にたてば、サピエンスが生き延びるためには毎日2000キロカロリーの摂取だけで良い。それ以上はすべて贅沢である。どの時代のどの文化も、この生物学的貧困線以外に、さらなる必要を基本的なものと定義してきた。現在であればインターネットへのアクセスも最低の定義に含まれると考える人もいる。最低教育には何が含まれるのか。読み書きだけだろうか。義務教育だけだろうか、博士課程まで全部か。

いずれにしろ、いったんすべての人に無料で提供すれば、それは当たり前のものとなり、その後、基本的ではない贅沢な部分を巡って熾烈な社会的競争と政治的闘争が起こるだろう。

このようにアルゴリズムによって仕事を奪われ、人間は最低保証を受け生きるようになるかもしれないが、自分の人生を思い通りにできなくなることのほうが遥かに恐ろしい。すなわち、人間からアルゴリズムへの権限の移行である。

3.自由 -ビッグデータがあなたを見守っている-

二大政党であるアメリカですら、共和党員(保守派)も民主党員(リベラル派)も、自由選挙や独立した司法制度や人権のような根本原則には誰もが同意している。国民投票や選挙において議員たちは国民に、「この件に関してどう感じますか?」と聞く。有権者は「どう考えますか?」と問われたのだと異議するかもしれないが、これはよくある誤解である。この問いは人間の合理性にまつわるものではなく、つねに感情にまつわるものだ。もし民主主義が合理的な意思決定に尽きるのなら、すべての人に同じ投票権を与える理由は断じてない。他の人よりもはるかに博識で合理的な人に一任すればよいのだ。しかし、知能の高さは千差万別であっても、あらゆる人間は等しく自由であるという前提に民主主義は立っている。心へのこのような依存は、自由民主主義のアキレス腱になりかねない。テクノロジーを使って人間の心をハッキングして操作できるようになったら、民主政治は情動を操る人形芝居と化すだろう。

私達の感情の源泉は、何らかの霊的特性によるものではない。むしろ感情はあらゆる哺乳動物と鳥類が、生存と繁栄の確率を素早く計算するのに使う、生化学的なメカニズムである。感情は直感や霊感や自由に基づいているのではなく、計算に基づいているのだ。

生物学者たちは人体の謎、それもとくに、脳と人間の感情の謎を解明しつつあるし、コンピュータ科学者達が前代未聞のデータ処理能力を私達に与えてくれつつある。バイオテクノロジー革命が情報テクノロジー(IT)革命と融合したときには、私達の感情を私達自身よりも遥かにうまくモニターして理解できるビックデータアルゴリズムが誕生する。その暁には、権限はおそらく人間からコンピュータへ移る。これを以下の公式で表せる。

b x c x d = ahh!

すなわち、biological x knowledge computing power x data = ability to hack humans

(「テレビジョン」という言葉は、「遠い」というギリシア語と、「見ること」を意味する「ヴォーシオー」というラテン語に由来する。だがそのうち、私達が遠くから見られるようになるかもしれない。)

一部の国や一部の状況では、人々は全く選択肢を与えられず、ビッグデータアルゴリズムの決定に従うことになるかもしれない。さらに自由社会とされている場所でも、アルゴリズムが権限を増すかもしれない。私達はしだいにアルゴリズムを信頼したほうがいいことを経験から学び、自ら決定を下す能力を徐々に失っていくだろう。すでにこの20年のうちに私たちは的確で信用できる情報を探すという行為を、グーグルのアルゴリズムに委ねているのだ。私達は情報をもう探さず、ググる。そして自ら情報を探す能力が落ち、真実はグーグルの検索上位を占める結果によって定義されている。

私達が次第にAIに頼るようになり、決定を下してもらうようになると、この人生観に何が起こるのか?何を学ぶべきか、どこで働くべきか、誰と結婚するべきかを、一旦AIに決めてもらい始めたら、人間の一生は意思決定のドラマではなくなり、民主的な選挙や自由市場はほとんど意味をなさなくなる。(友注 PSYCHO-PASSの世界に近似)

重要な決定には倫理的側面があるから、アルゴリズムは私達のために重要な決定を下せないという異論を唱える人がいるかもしれない。しかし、トロッコ問題のような議論が現実の行動に与えた影響は小さかった。人間は危機に際してはたいてい、哲学的な見方を忘れる代わりに、情動と本能的直感に従うからだ。しかしコンピュータアルゴリズムは自然選択によって形作られたわけではなく、情動も本能的直感も持っていない。よって危機に瀕しても、人間より遥かに倫理的指針に従うことができるだろう。テスラは倫理の哲学の理論的問題を工学の現実的問題に変えて、自動運転プログラムに埋め込めばよいだけだ。

20世紀後期には、民主国家はたいてい独裁国家に優った。それは民主国家のほうがデータ処理が分散されており、それを一箇所に集中させる独裁国家は効率が悪かったことが一つの要因だ。ところが、AIのおかげで、厖大な情報を中央で処理することが可能になり、分散型システムより効率が良くなるかもしれない。なぜなら機械学習は、分析できる情報が多いほど精度が高まるからである。独裁政権が全国民にDNAをスキャンさせ、医療データをすべて中央当局に提供するように命じれば、我々の社会よりも遺伝学と医学研究の分野で計り知れないほど優位に立てる。20世紀には独裁政権にとって、最大のハンディキャップだった中央集中型のシステムは、21世紀には決定的な強みになっているかもしれない。我々は、AIをCEOや首相に任命したりはしないが、すでにCEOや首相はいくつかの選択肢から決定を選ぶ場合には、それらを活用している。

4.平等 -データを制する物が未来を制する-

人類は平等への道を歩んでいるように見える。その歴史を石器時代まで遡ると、古代の狩猟採集民の社会は、人類史上もっとも平等主義だったことがわかる。なぜなら、彼らにはほとんど財産がなかったからだ。財産こそが、長期的な不平等の前提条件なのだ。農業革命の後、人間が土地や動植物や道具の所有権を獲得し、階層社会が出現した。近代後期に産業革命によって、人間社会の理想は「平等」となった。なぜなら工業社会、工場を動かすために一般大衆が重要になったからである。21世紀にはグローバル化によって平等は一層進むだろうと予期されていた。(友注 フラット化する世界)しかし実際にはトップ1%の最富裕層が世界の富の半分を所有している。

事態はこれより遥かに悪くなるだろう。これまで説明したAIの普及やバイオテクノロジーの進歩が、超富裕層に対して寿命を伸ばしたり、身体的能力、認知的能力を与えることになれば、人類は生物学的なカーストに分かれかねない。生物工学とAIの普及の組み合わせという、この二つの過程の相乗効果は、一握りの超人の階級と、厖大な数の無用のホモ・サピエンスからなる下層階級へと人類を二分しかねない。

一般大衆が経済的重要性と政治権力を失えば、国家は彼らに投資する動機の一部を失いかねない。

古代には土地が重要な資産であり、政治は土地を支配するための戦いであった。近代は機械と工場が土地よりも重要になり、政治闘争は、そうした必要不可欠な生産手段を支配することに焦点を合わせた。21世紀の最も重要な資産はデータで、土地も機械も影は薄くなり、政治はデータの流れを支配するための戦いになるだろう。すでにグーグルやフェイスブック、百度、テンセントなどはデータ収集に躍起になっている。

土地の所有については何千年にも及ぶ経験があり、産業の所有は株式によって明確にすることが可能になり、同時に規制することができる。しかしデータの所有を規制する経験はまだない。データの所有をどのように規制するかが、私達の時代の最も重要な政治的疑問になるだろう。

Ⅱ.政治面の難題

5.コミュニティ -人間には身体がある-

2016年の選挙の政治的激震(友注)は、シリコンバレーに猛烈な衝撃を与えた。そして2017年2月16日にザッカーバーグはグローバルなコミュニティを築く必要性を訴えた。その後、薬物依存症の蔓延から残忍な全体主義体制まで、私達の時代の社会政治的混乱は、コミュニティの崩壊に負うところが大きいとし、フェイスブック(以下、FB)はそうしたコミュニティの再建事業を約束した。(友注 教区牧師達のような役割を果たすと)

私達は石器時代から大して変わらずに、150人以上のことをよく知ることは出来ずにいる。こういった親密な集団がなければ、人間は寂しさや疎外感を覚える。ここ二世紀の間、親密なコミュニティは崩壊し続けてきた。(友注 要具体例)

たしかにオンラインコミュニティーはオフラインコミュニティを育むのを助けるだろうが、真の意味で根を張るためにはオフラインの世界でも根を張らなくてはならない。例えば自分がイスラエルで病気で寝ていたら、カルフォルニア州のオンラインの友人はお見舞いのメッセージをくれるだろうが、スープやお茶を持ってきてくれるわけではない。人間には身体がある。テクノロジーは私達を自分の体から遠ざけて、私たちはスマートフォンやコンピュータに関心を払うようになった。スイスのいとこと話すのは簡単になったが、朝食で配偶者と話すのは難しくなったようにである。

今までのところFBのビジネスモデルは、オフラインの活動にあてる時間が減ることになっても、より多くの時間をオンラインで費やすように奨励する。FBは本当に必要なときにだけインターネットに接続し、自分の身体的環境と自分自身の体や感覚にもっと注意を向けるように、人々を奨励する新しいモデルを採用できるだろうか。オンラインの巨大企業は、人間を視聴覚的な動物、すなわち二つの目と二つの耳が10本の指と電子機器の画面とクレジットカードにつながったもの、とみなしがちだ。だが人類の統一を目指すのであれば、人間には身体があることを正しく認識することが欠かせない。

6.文明 -世界にはたった一つの文明しかない-

FBがオンラインで人類を統一することを夢見ているのに対して、オフラインの世界で最近起こっている出来事は、「文明の衝突」という見方に新しい命を吹き込んでいるように見える。例えばイスラミックステートとの台頭などを、「西洋文明」と「イスラム文明」の衝突に起因すると考えるようにである。この見方に対して、西洋とイスラム世界の折り合いはつかないのだから、共存をするべきでないという見解が広く支持されている。しかし、イスラム原理主義は西洋独特の現象に対してではなく、グローバルな文明に対して挑んできているのだ。よってイスラミックステートさえも、私達全員が共有するグローバルな文化の正道を逸脱した枝と見るほうが正解である。

さらに「文明の衝突」という見方を支えるために、歴史と生物学の類似性を想定するのは間違っている。チンパンジーなのか人間なのかは、あなたの信念ではなく遺伝子次第である。チンパンジーはゴリラの社会体制は採用できないし、その逆もまた然りだ。ところが人間の場合はまるで違う。例えば、20世紀のドイツ人は100年も満たぬ間に6つの異なる制度を組織した。ドイツ人は相変わらずビールとソーセージを好んだが、ウィルヘルム二世の時代からアンゲラ・メルケルの時代まで、変わらなかったドイツ人の本質などあるだろうか。2018年にドイツ人であることは、厄介なナチズムの遺産に対処しつつ、自由主義と民主主義の価値観を養護することを意味するが、2050年にドイツ人であるのが何を意味するかは、しれたものではない。人々はこうした変化から目を背けることが多い。

このように現在のイスラミックステートと西洋文化の衝突を「文明の衝突」として捉えるべきではない。イスラミックステートはイラクの広大な範囲を占領し、民を殺害し、遺跡を壊した。しかし彼らが銀行に入り、米ドル紙幣を金庫の中で見つけたときはどうしたか。彼らはそれを焼かなかった。少なくとも、イスラミックステートの戦闘員ですら、米ドルとFRB(連邦準備制度)を信頼している。メキシコの麻薬密売組織の首領、北朝鮮の圧制者も、全員がその信頼を共有している。

人々は相変わらず違う宗教や国民のアイデンティティを持っている。だが、国家や経済の構築、病院の建設、爆弾の製造の仕方といった実際的な話になると、私達のほぼ全員が同じ文明に所属している。このような見地に立てば、今後の争いは、異質文明同士の衝突と言うよりも、単一文明内の兄弟喧嘩となる可能性が高い。それならば、世界の大半を飲み込みつつあるナショナリズムの波は、どのように説明すればよいのだろうか。

7.ナショナリズム -グローバルな問題はグローバルな答えを必要とする-

全国民と一体感を持つのがどれほど難しいかと気づくには、家族親族の名も正確もわかるが、同じイスラエル国籍を持つ800万人の人の名前は知らないし、その殆どは将来会うこともないが、それでもこの漠(友注 ばく)とした人々の集まりに彼が忠誠心を感じられることで説明できる。これは比較的新しい歴史上の奇跡である。

ナショナリズムがなくなれば、部族社会特有の混乱状態の中で暮らすことになるだろう。とくに民主主義はナショナリズムなしでは機能できない。人々はたいてい当事者全員が同じ国家への忠誠心を共有しているときにだけ、民主的な選挙の結果を受け入れるものだ。

問題は、有益な愛国心が狂信的排外主義の超国家主義(訳注 ウルトラナショナリズム)に変容した時に始まる。自分の国は唯一無二であると信じる代わりに、自分の国は至上である、そして国に忠誠心の一切を尽くすべきであるといった変容が、暴力的な争いの温床になることは19から20世紀に見てきたとおりだ。

1945年に状況が一変した。広島への原爆投下後、人々はもう、ナショナリズムがただの戦争につながることは恐れなかった。核戦争につながることを恐れ始めたのだ。完全な壊滅の可能性、この人類共通の実存的驚異のおかげで、様々な国家の上に、グローバルなコミュニティが徐々に発展してきた。

特定の国家の運営にはナショナリズムはまだ多くの名案を持っている一方、世界全体を運営するための実行可能な計画は一つも持ち合わせていない。そして人類は何らかのグローバルな枠組みを通してしか解決の出来ない、3つの共通の難題に直面している。

(a)核の問題
冷戦時代、核兵器による人類滅亡は明白な驚異だったが、人類はこの核の難題に見事に対処したばかりか、結果として1945年以降、殆どの国は標準的な政治ツールとして戦争を使うのを辞めた。今また、「自国第一!」と叫ぶ熱狂的なナショナリストは、自国が国際協力の確固たるシステムなしに、独力で核による破壊から自分自身を守れるのか問うべきだ。

(b)生態系の難題
この問題は未来に起こるかもしれない核戦争の勃発ではなく、今起こっている問題である。二酸化炭素のような温室効果ガスの排出が、恐ろしい速さで地球の気候を変えているというのは、科学会の一致した見方だ。

たしかに個々の国は環境に優しい様々な政策を採用でき、その多くが、環境面だけでなく経済面でも理にかなっている。中国やブラジルのような国が繁栄して、さらに何億もの人がじゃがいもの代わりに牛肉を日常的に食べることが可能になると、環境への負荷は悪化する。例えば細胞肉の事例のように政府や企業や個人ができることはたくさんある。(要、他の事例)よって、効果を上げるためにはグローバルなレベルでそれらを行わなければならない。こと気候に関しては、国家には断じて主権はない。太平洋の島国であるキリバス共和国が、温室効果ガス排出をゼロにしたところで、他の国々の追随がなければ彼らは海面に沈むのだ。

一方で温室効果によって得をする国もある。温暖化によってシベリアは世界の穀倉地帯に変わるかもしれないし、北極海の海上交通路はグローバルな公益の動脈になるだろう。イランやサウジアラビアは石油とガスの輸出を頼みとしている。

(c)テクノロジー面の課題
AIとバイオテクノロジーの融合による、デジタル独裁国家や無用者階級の創出などの破滅の驚異に対するナショナリズムの答えは何であろうか。これも気候変動の場合と同じで、技術的破壊についても、驚異に取り組むための枠組みとしては、国民国家は完全に不適当である。例えアメリカ政府が人間の胚細胞を操作することを禁止しても、中国の科学者がそれを行うのを防げるわけではない。そして中国が成果をあげ、経済あるいは軍事面で優位性を得ることになれば、アメリカは自国の禁止令を撤回したくなるだろう。こうして、他の国々も追随することになる。こうした問題を解決するためには、ナショナリズムの見地を遥かに超え、グローバルな視点から、宇宙の視点から物事を眺める必要がある。

共通の敵は、共通のアイデンティティを作り上げるための最善の触媒であり、人類には今、少なくともそのような敵が、少なくとも3つある。グローバリズムとナショナリズムは相反するものではない。なぜなら愛国心は同国人の面倒を見ることを意味する。そして21世紀には、同国人の安全と反映を守るためには、外国人と協力しなくてはならないからだ。良きナショナリストは今や、グローバリストであるべきなのだ。

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